はじめに

線形代数線型空間(もしくはベクトル空間)および線型写像を扱う数学の一分野である. その理論は自然科学, 工学, データサイエンスなど様々な分野に応用されるものであり, 現代では理工系学問における基礎的教養とみなされる.

多くの場合, 線形代数の解説は行列ベクトルの導入から始まり, それらに対する具体的な演算に触れた後に, より抽象的な議論を展開する, という順序で行われる. ここでは, 行列及びベクトルに対する初等的な演算や操作に限定して解説する. これらの内容は具体的な計算ばかりで退屈に感じられるかもしれないが, 他の分野への応用にも頻繁に現れるものであり, また数学においてもより一般的, 抽象的な議論を展開する足がかりになるという点で重要なものである.

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導入

高校数学で学ぶベクトルは, 向きと大きさを表すものであると説明される. 以降, このようなベクトルのことを 幾何ベクトル と呼び, $\vec{a}$ などと表記することにする. より抽象的なベクトルとして, 単に $n$ 個の実数を並べた組を考える: \[ \mathbf{a} = \begin{pmatrix} a_1 \cr a_2 \cr \vdots \cr a_n \end{pmatrix} \] このとき, $\mathbf{a}$ を 数ベクトル と呼び, $\mathbf{a}\in\mathbb{R}^n$ と表記する ($n=1$ のとき, $\mathbf{a}=(a_1)$ は実数 $a_1\in\mathbb{R}$ と同一視される). 幾何ベクトルも, 例えば $xy$ 平面上で \[ \vec{a} = (a_1,a_2) \] のように成分表示することができるが, これは幾何ベクトルと数ベクトルを対応付けていることを意味している. 以降, この対応付けにより, 幾何ベクトルと数ベクトル (さらにユークリッド空間 $\mathbb{R}^n$ 上の点) を同一視することにする.

$2$ つの実数 $a_1$, $a_2$ に対して, \[ \mathbf{a} = \begin{pmatrix} a_1 \cr a_2 \end{pmatrix} \in \mathbb{R}^2 \] はベクトルである.

さて, 関数 $f(x)$ といったときに, これは $x$ に対して $f(x)$ が $1$ つに決まることを意味しているのだった. $x$ が $1$ つの実数である場合 (つまり $x\in\mathbb{R}$ の場合) は馴染み深いと思われるが, ここでは $x\in\mathbb{R}$ の代わりにベクトル $\mathbf{x}\in\mathbb{R}^n$ を考えよう. この場合も $f(\mathbf{x})$ のことを関数と呼ぶが, より一般に写像と呼ぶこともある. また, $f(\mathbf{x})$ がベクトルである場合には, $f$ はベクトル値関数であるということがある.

  • 実数 $x\in\mathbb{R}$ に対して, $f(x) = x^2$ は関数である.
  • ベクトル $\mathbf{x} = \begin{pmatrix} x_1 \cr x_2 \end{pmatrix} \in \mathbb{R}^2$ に対して, $f(\mathbf{x}) = \sqrt{x_1^2+x_2^2}$ は関数である (写像とも呼ばれる).
  • ベクトル $\mathbf{x} = \begin{pmatrix} x_1 \cr x_2 \end{pmatrix} \in \mathbb{R}^2$ に対して, $f(\mathbf{x}) = \begin{pmatrix} x_1+x_2 \cr x_1-x_2 \end{pmatrix}$ は関数である (特にベクトル値関数と呼ばれるものであり, 写像とも呼ばれる).

ここで, 数ベクトル空間上の写像 (関数) $f(\mathbf{x})$ が以下を満たすとき, $f$ は線型写像 (もしくは線形関数) であるという:

  • 任意の $\mathbf{x}_1$, $\mathbf{x}_2$ に対して $f(\mathbf{x}_1+\mathbf{x}_2) = f(\mathbf{x}_1) + f(\mathbf{x}_2)$,
  • 任意の $\mathbf{x}$ と任意の$\lambda\in\mathbb{R}$ に対して $f(\lambda\mathbf{x}) = \lambda f(\mathbf{x})$.

この線形写像が具体的にどのような形をしているか考えてみよう. 例として, $\mathbf{x}\in\mathbb{R}^1$ の場合 (つまり $\mathbf{x}$ が実数 $x$ と同一視される場合) を考えると, $f(x) = ax$ という形で表される関数は線形関数になっていることを確認することができる. 実際に, $f(x) = ax$ ならば,

\[ \begin{array}{rl} f(x_1+x_2) &= a(x_1+x_2) \cr &= ax_1+ax_2 = f(x_1)+f(x_2), \end{array} \] \[ f(\lambda x) = a\lambda x = \lambda (ax) = \lambda f(x) \]

が, どんな実数 $x_1, x_2, x, \lambda$ に対しても成立する. 一方で, 例えば $f(x) = ax^2+bx+c$ という形の関数は, $a=c=0$ でない限り線形関数ではないことが確認できる. 実は, $f(x)$ が線形関数であることは, 対応する実数 $a$ が存在して \[ f(x) = ax \] と表すことができることと同値である. つまり線形関数とは非常に簡単な形をした関数であり, そのため有用な性質を持つものである. また取り扱いが容易であることから, 様々な応用が存在するものでもある.

上では $x$ が実数である場合を考えたが, 実は $f(\mathbf{x})$ に対しても似たようなことが成立する. 具体的には, $f(\mathbf{x})$ が線形関数ならば, 対応する行列 $A$ が存在して \[ f(\mathbf{x}) = A\mathbf{x} \] と表すことができる. ここで, $A\mathbf{x}$ は行列 $A$ とベクトル $\mathbf{x}$ の積 (行列積) である. このように, 行列と呼ばれるものは線形写像と密接に関連するものである.

ただし, 線形写像に関するここまでの説明について, 例えば以下の点は (初学者にとって) 明らかではないだろう:

  • $2$ つのベクトル $\mathbf{x}_1$ と $\mathbf{x}_2$ の和 $\mathbf{x}_1+\mathbf{x}_2$ とは何か? どのような $2$ つのベクトル $\mathbf{x}_1$ と $\mathbf{x}_2$ のペアに対しても, $\mathbf{x}_1+\mathbf{x}_2$ を計算することができるのか?
  • ベクトル $\mathbf{x}$ と実数 $\lambda$ に対して, $\lambda \mathbf{x}$ とは何か?
  • 行列とは何か? ベクトルとどのような関係があるのか?
  • 行列積とは何か? 行列積の計算結果として何が得られるのか? どのように計算するのか?

これらの内容は線形代数の理論や応用に関する記述を理解するために必須となるものである. この資料においては, 1: 行列 においてこれらの内容を解説する.


さらに, 与えられた線形関数 $f$ と 与えられた $b$ に対し, $f(x)=b$ という方程式を満たす $x$ を求めよ, という問題を考えてみる. いま, $f$ が線形関数ならば $f(x) = ax$ と表すことができるのであった. 従って, この方程式は \[ ax = b \] という $1$ 次方程式を意味しており, もしも $a$ が $0$ でないならば \[ x = a^{-1}b \] が方程式の解となる, ただし, $a^{-1} = 1/a$ は逆数であり, $a a^{-1}=1$ を満たしている.

ここで, やはり $f$ が線形関数であって, $\mathbf{x}$ と $\mathbf{b}$ がベクトルである場合に, 同様に $f(\mathbf{x}) = \mathbf{b}$ という方程式を考えてみよう. $f$ が線形写像ならば, 行列 $A$ を用いて $f(\mathbf{x}) = A\mathbf{x}$ と表すことができるのであった. 従って, この方程式は \[ A\mathbf{x} = \mathbf{b} \] を意味しており, 実はこれは連立 $1$ 次方程式を表している. さらにこれは, 実は上と似たように解を求めることもできる: もしも行列 $A$ が正方行列であって, その行列式 $\det A$ が $0$ でないならば \[ \mathbf{x} = A^{-1}\mathbf{b} \] が連立 $1$ 次方程式の解となる, ここで $A^{-1}$ は正則行列 $A$ の逆行列と呼ばれるもので, (逆数 $a^{-1}$ に対応するものであり) $AA^{-1}=A^{-1}A=I$ を満たすものである, ただし $I$ は単位行列である.

正則行列 $A$ に対して, 逆行列 $A^{-1}$ を求める計算は, 行列 $A$ による"割り算" に相当する計算であり, これにより連立 $1$ 次方程式を解くことができる. ただし, この説明においても, 正則行列, 逆行列, 行列式など (初学者にとっては) 明らかでない概念が現れる. これらの内容については, この資料の 2: 行列の基本変形とその応用 および 3: 行列式 で解説する.


以上に述べたように, 行列は線形代数における主題の一つである線型写像と密接に関連するものであり, 線形代数という分野の基礎と言える概念である. 加えて, 行列は連立 $1$ 次方程式の記述に用いることができ, さらに行列式と呼ばれる量が $0$ でないならば, 行列 $A$ による "割り算" に相当する操作により連立 $1$ 次方程式を解くことができる. 自然科学や工学では, 現象を数学的に記述する際に, 取り扱いが容易な線形関数を用いた近似的な表現を用いることも多く, 従って行列による演算や連立 $1$ 次方程式は幅広い応用を持つものである.

このWebページでは, 線形代数の入門的な内容として,

  • 行列とは何か, 行列に対する和や積といった演算はどのように計算するのか,
  • 連立 $1$ 次方程式を行列を用いて記述した際に, それをどのようにして解くのか,
  • 逆行列とは何か, 行列式とは何か,

といった内容について解説する. また, 行列に関する基礎的な事柄の説明の後に, それらを応用した内容の一つとして, 固有値および固有ベクトルに関しても簡単な場合に限り言及することにする.


補足: 集合と論理

集合と論理に関する用語, アイデアなどは非常に重要なものである. (この資料を含む) 数学的な記述において頻繁に現れるものであり, ここで簡単に言及しておく.

数学的な"もの"の集まりを集合 (set) という. また, 集合に含まれる"もの"を (element) という.
  • $x$ が集合 $X$ の元であるとき, $x\in X$ と表す.
  • $x$ が集合 $X$ の元でないとき, $x\not\in X$ と表す.
  • 集合 $X$ の全ての元が集合 $Y$ の元でもあるとき, $X$ は $Y$ の部分集合であるといい, $X\subset Y$ と表す.
  • $2$ つの集合 $X$, $Y$ が $X\subset Y$ および $Y\subset X$ を満たすとき, $X=Y$ と表す.
  • 実数全体の集合を $\mathbb{R}$ と表す. $x$ が実数であることは, $x\in\mathbb{R}$ と表される.
  • 複素数全体の集合を $\mathbb{C}$ と表す. 全ての実数は複素数でもある (実数は複素数の中で特殊なものである) ため, $\mathbb{R}\subset \mathbb{C}$ である.
  • 集合 $X$ の全ての元に対してある性質が成り立つとき, 「任意の $x\in X$ に対してある性質が成り立つ」と表現する.
  • 集合 $X$ の少なくとも一つの元に対してある性質が成り立つ時, 「ある $x\in X$ が存在して, ある性質が成り立つ」と表現する.
  • 任意の $x\in\mathbb{R}$ に対して, $x^2\ge 0$ が成立する.
  • ある $x\in\mathbb{R}$ が存在して, $x^2=0$ が成立する (この場合, そのような $x$ は $0$ のみである).
  • ある $x\in\mathbb{R}$ が存在して, $x^2\lt 1$ が成立する (この場合, $-1\lt x\lt 1$ であればよい, そのような実数 $x$ は少なくとも一つは存在する).
  • 『任意の $x$ に対して』ということを『$\forall x$』と表記することがある.
  • 『ある $x$ が存在する』ということを『$\exists x$』と表記することがある.
正しいか正しくないか明確に判断できる文章を命題 (proposition) という. 命題は正しいなら (true), 正しくないなら (false) であるという.
  • 「任意の $x\in\mathbb{R}$ に対して, $x^2\ge 0$ が成立する.」, これは真である.
  • 「任意の $x\in\mathbb{R}$ に対して, $x^2> 0$ が成立する.」, これは偽である, 反例は $x=0$.

以降, 命題が真である場合に「(命題が) 真である」という記述を省略することがある.

  • $2$ つの条件 $P$, $Q$ に対して, 命題 「$P$ ならば $Q$」 を $P\implies Q$ もしくは $Q\impliedby P$ と表す.
  • $P\implies Q$ が真であるとき, $P$ を $Q$ であるための 十分条件 (sufficient condition), $Q$ を $P$ であるための 必要条件 (necessary condition) であるという.
  • $P\implies Q$ と $Q\implies P$ がともに真であるとき, $P\iff Q$ と表し, $P$ は $Q$ であるための必要十分条件である, もしくは $P$ と $Q$ は同値であるという (英語では $P$ if and only if $Q$ と表される).
  • 命題「$x\in\mathbb{R}\implies x^2\ge0$」は真なので, $x\in\mathbb{R}$ は $x^2\ge0$ であるための十分条件である.
  • $x\in\mathbb{R}$ とする, このとき $x\neq0\iff x^2>0$ なので, $x\in\mathbb{R}$ ならば $x\neq0$ と $x^2>0$ は同値である.
命題 「$P\implies Q$」 と, その対偶 (contraposition) 「$Q$ でない $\implies P$ でない」の真偽は一致する.
  • 命題「$x\in\mathbb{R}\implies x^2\ge0$」は真なので, その対偶である命題「$x^2<0\implies x\not\in\mathbb{R}$」も真である.
  • $x\in\mathbb{R}$ とする, このとき $x\neq0\iff x^2>0$ である, つまり命題 \[ 「x\neq0\implies x^2>0」 \] と \[ 「x^2>0\implies x\neq0」 \] はどちらも真である. 従って, それらの対偶である命題 \[ 「x^2\le0\implies x=0」 \] および \[ 「x=0\implies x^2\le0」 \] も真であり, 結果として $x\in\mathbb{R}$ ならば $x=0$ と $x^2\le0$ は同値である.
    • 実際には, 命題「$x\in\mathbb{R}\implies x^2\ge0$」が真であることも用いて, $x\in\mathbb{R}$ なら $x=0\iff x^2=0$ が成立する.

対偶論法は, この資料におけるいくつかの証明でも用いる.